プロ野球(主にホークス)考察ブログ

野球の記事には旬と味わいが必要だ。旬を捉えるのは新聞記者にお任せするとして味わいの部分を探求していくブログです。

川崎宗則

それは突然の新聞報道であり球団発表であった。

勿論そんな悪い予感はしていたが、本当にそうなった。

 

川崎宗則ホークス退団、実質引退か」

 

詳細は新聞報道に任せるとして自分の中での川崎ヒストリーをまとめようと思う。

 

一言でいうならばかれは「空気を変えた」選手だと思う。

 

まずは2003年、「ファームで圧倒的首位打者をとった川崎という選手がいる」ということは知っていたが、井口・松中・城島を中心としたダイハード打線に2番サードとして存在感を示した。この頃は井口や城島など野手は武士のような選手が多かった中、川崎や当時ルーキーの和田など爽やかイケメンの先駆け的存在だった。

2004年はショートのレギュラーを獲得し、首位打者盗塁王とタイトルホルダーにもなり一気に知名度が上がるとともにそのイケメンキャラ、「宗リン」は全国区となる。

 

そして2006年、WBCに出場し決勝のキューバ戦での「神の手」ホームインにより日本に優勝をもたらしたのである。そしてこのWBCが川崎の野球人生を大きく変えたのだろう。そして個人的には2009年の決勝韓国戦、イチローが林からセンター前タイムリーを打つ前の打者は「代打 川崎」だったのである。

もちろんリアルタイムで見ていたので「ここで宗リンが打って決めるのか。」「イチローまで回るのか。」と思いながらムネリン打ってくれと願ったらたしか初球を打ってサードフライ。この時の本当に悔しそうな表情は自分も記憶している。

 

そんな栄光も苦労も味わった国際大会を経て、特に2009年以降の川崎はチームリーダーとして抜群の存在感を発揮するようになる。

今やホークス選手がお立ち台で当たり前のようにやるパフォーマンスも、祝勝会での音頭取りもムネリンが始めたそうである。

 

冒頭にも書いたが個性が強く個人としての独立度が高かったチームが、一つの元気印を中心に機能していく。そしてとにかく周りを盛り上げる。今のチームの文化は川崎が作った。そしてそれを共にプレーした内川・松田・本多が引き継いだといっても過言ではないのである。

 

そして迎えた2011年オフ。日本一を置き土産に川崎はアメリカに渡った。

そう、イチローを追いかけてついにメジャーリーガーになってしまったのだ。

しかもイチローはその年の9月にトレードをチームで去る。それでも彼はアメリカで戦い続けることを4年にわたって選択し続けた。これはなかなかできることではない。

 

メジャーリーガー川崎宗則として記憶に残るのは大きく2つ。

一つはブルージェイズ時代、そしてもう一つはカブス時代である。

川崎が選手として輝いたのはブルージェイズ時代で、メジャーでサヨナラヒットを打ったし、トロントの地元のテレビ番組では人気者になった。かの有名は「アイムジャパニーーーズ!」もこの時代である。

続いてカブス時代、ほとんどがマイナー暮らしが続いたが、昇格したタイミングでは安打をしっかり放ち、オープン戦では守備でも貢献し、腐らずに野球を続けた結果、「ヤギの呪い」と言われたようにカブスは長く優勝できなかったチームが2016年はワールドチャンピオンになったのです。

 

日本時代にチームの流れを変え、アメリカでエンターテイメントの深さを知り、そしてアメリカで「野球を楽しむ」ことの大切さに気付いたムネリンはホークスに大きな足跡を残すこととなる。

 

そして昨年帰国し、停滞していたチームのムードを盛り上げホークスを2年ぶりの優勝に導いてくれました。

惜しむらくは帰国してからヒーローインタビューの機会がなく、「チェスト!!」が聞けなかったこと。ファンは川崎が活躍した日は「今日こそ聞けるのでは??」と期待しつつ待っていたがその機会は叶いませんでした。

 

それでもいつかきっとどんな形であれ元気になってくれることでしょう。

多くのものを野球界にもたらしたチームプレイヤー川崎宗則選手、お疲れ様でした。

 

【川崎の所属するチームの戦績】

日本一:3回(リーグ優勝実質6回)

世界一:1回(リーグ優勝2回)

WBC優勝:2回

 

個人として圧倒的に突出したわけではなくとも最高の野球選手でした。