プロ野球(主にホークス)考察ブログ

野球の記事には旬と味わいが必要だ。旬を捉えるのは新聞記者にお任せするとして味わいの部分を探求していくブログです。

内海と長野に思い出す、馬原の移籍

年明けのプロ野球界を賑わせた、丸の人的補償としての長野の広島移籍。

そして炭谷の人的補償としての内海の西武移籍。

プロ野球ファンからすると後者は「巨人の事情・西武の事情照らして双方最適な選択」であり、前者は正直驚きでした。

たしかに丸の加入により巨人の外野は一つ埋まりますし、怪我もちの選手ですがシーズン通してある程度の活躍が期待できる選手であり、センターを丸で固定できたとして残るライト・レフトがゲレーロと陽で埋まるとも思えず、重信や松原・立岡などに期待しつつも一年間レギュラーで使える選手ではない中、安定した成績を残せる選手というのは置いておきたいと考えるのが一般的です。

さらに、移籍相手はリーグ優勝チーム。優勝を目指す上では少しでも上位チームに戦力になる選手を渡したくないと考えるのが一般的でしょう。

 

 

・・・ここから導かれる解は長野はプロテクトしておくだと思うのですが、巨人は今年外野手として最も好成績を納めた長野を外すという選択をしました。

 

とはいえ、プロテクトできる人数も限りがあり球団としての戦略もあったうえでの選択なので、結果はやむを得ませんがここで良くなかった(ファンの火に油を注いだ)のが球団の反応です。

 

実際に指名されたときに「予想外、断腸の思い」といい、「いや、予想はするだろ!」と突っ込まれ、内海の人的補償が発表された時の記事で巨人の球団社長の「次は長野かな?」なんて呑気な発言もとりあげられてしまいました。おまけに年始のあいさつで「最高のフロントになる」なんて言っちゃったもんだからもう手のつけようがありません。

 

さて、巨人の悪口ネタはこのぐらいにして、実はホークスも人的補償では苦い思い出があります。それは2012年のオフ寺原獲得の代わりとして起こった馬原の流出でした。

 

当時自分は大学4年生。馬原は地元出身で前年は登板なしとはいえそれまでホークスを支えてきたストッパーであり、なぜ馬原が外れるのかと思い、ホークスの選手名鑑からプロテクトリスト28人を作ってみたりしたことを覚えています。

そして、26名までは確定。残り4名のうち2名をどう選ぶかというところで、そこに馬原の名前もあり、残念だが致し方ない結果だと自分を納得させたものでした。

 

今年も浅村か西が仮に獲得できていたらなかなかにもやもやする日々となったことでしょうが、重要選手が移籍してしまった側から考えれば補償は必要なので、今後もこの制度を巡るドラマは展開されそうです。

 

個人的には広島長野は結構うまくはまるんじゃないかなというきがしています。

惜別球人:攝津正

昨日、ホークス摂津の引退会見が行われました。

2009年のデビューから10年間のプロ通算成績は、以下のとおり。

 

成績:282登板 79勝 49敗 1セーブ 73ホールド 通算防御率2.98

獲得タイトル:新人王、最優秀中継ぎ最多勝、最高勝率、沢村賞

 

なかでも特筆すべきは沢村賞と最終中継ぎを獲得した選手は攝津ただ一人です。

というわけで先発として、中継ぎとしてフル回転した攝津投手の軌跡を振り返ります。

 

Topic1:圧倒的制球力

 

攝津といえば小さいテークバックから針の穴を通すようなコントロール

また、プロ野球ファンの間では有名ですが、西武の栗山は攝津を絶賛し続けています。

 

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そしてなかでも、アウトコースインコース低めへのストレートは抜群でした。

引退に際して発表された元同僚細川も、「摂津の右打者への直球はピカ一だった。あの直球があったからこそ、カーブもシンカーも生きた」とコメントしています。

 

その抜群の一球を表しているのが2011年の日本シリーズの最後の1球です。

カウント3-2からのアウトコース低めへのキレのあるストレート。

動画自体は少し長いので05:30辺りをご覧ください。

 

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Topic2:どんな場面でもポーカーフェイス

 

どんなに厳しい場面を迎えても、どんなに厳しい場面を抑えても基本的には表情を変えません。ポーカーフェイスと書きましたが、どんな場面でも緊張感の漂う表情をしていました。それは上の動画の日本一を決めたシーンでも同様です。05:40あたりからご覧ください。

これも本日付の西日本スポーツの記事ですが入団時の攝津の様子を一学年上にあたる馬原も「いい顔をしてるなぁ~と。内からにじみ出る、魂みたいなものです。ハッとなりました。」と評しています。

いわゆる「精悍な顔つき」というのはまさに攝津の表情ではないでしょうか。

 

また、攝津といえば始球式の際にどんなタレントがきても表情を変えずにポーズも同じことが一時期話題になりました。昨年稲村亜美さんが中学生に取り囲まれたニュースの時にも一部ネット民が「攝津を見習え」とスレが立っていたようです。

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攝津 始球式 の検索結果

 

Topic3:3年間の低迷/そして復活勝利

 

冒頭に紹介した通算79勝のうち75勝は2015年(7年目)までに挙げた勝ち星です。

最初の2年間は70試合登板、その後の5年間は5年連続2桁勝利と、まさに「リアルマイライフ(パワプロ用語)」と言われる選手生活を送っていましたが、2016年からの3年間は勝ち星が2→0→2と激減してしまいます。

原因は多くのところでいわれている勤続疲労かと思いますが、実際2014年に1度肩の不調で登録抹消された経験があり、その辺りから攝津本来のストレートのキレが少し陰りを見せていたように思います。

映像かつ感覚的な言葉になりますがそれまで「ピュッ」と行っていたボールが「ビューン」と、少し打者からすると余裕をもって対処できるボールになってしまった感があります。

そして、同時期に東浜や千賀を筆頭とした若手の台頭もあり2軍暮らしが長くなります。一方、時を同じくして結婚し可愛い女の子が産まれたのもこの頃です。

 

ただ、ここから紹介したいのですが、こういった苦境に立たされても野球に対する姿勢が腐らないのが攝津の凄さです。2016,2017,2018いずれも2軍で13試合に登板しており、特に2017→2018に関しては防御率も1点以上改善されています。

 

そして2018年5月22日福岡での西武戦で2年ぶりの復活勝利を挙げます。

その感動のヒーローインタビューがこちら

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全盛期はヒーローインタビューもほとんど顔を出さない攝津でしたが、ファンへの感謝とともに2歳になる娘さんに自分の野球選手としての姿を見てもらいたいという理由も込めて今シーズンの2勝はいずれもお立ち台に上がったとのことを後から知りました。

 

苦悩の末復活を遂げた攝津。しかし一方で2勝の内容もピンチを作りながらなんとか抑えていく形だったこと、投手の若返りというチーム方針もあり退団・12月末まで他球団からのオファーがなかったため、引退となりました。

 

個人的には常には難しくともピンチのシーンで投げていたストレートや変化球は素晴らしく1日10球魂込めて投げる中継ぎ投手ならばまだやれるような気もしていましたが、ホークスは中継ぎの層が厚く、他球団としてもそこに制約がかかるとなかなか取りにくいということもあり今回の決断に至ったのではないかと推測しています。

 

 

そして今回の引退に際し、「最後の3年間が自分には有意義だった。色んな苦労も味わったし苦労しているほかの選手の姿もみてきた。将来は指導者になりたい。」というコメントを残していることからも、いずれはホークスで指導者として帰ってきてくれるのではないでしょうか。攝津さん。とても良い指導者になりそうです。

 

ひとまずやりたいことは「釣り」とのことなので、次回攝津をテレビで見るときはこの番組かもしれません。ちなみに攝津さん、釣りの時はポーカーフェイスでなく、めちゃくちゃ笑顔です。余談ですが攝津の弟子にあたる森も釣り好きです。

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攝津さん、おつかれさまでした。

プロ野球トライアウト開催

今日はホークスの二軍本拠地タマスタ筑後でトライアウトが開催されました。

 

トライアウトを簡単に説明するとプロ野球球団から戦力外通告等を受けて退団した選手が実戦形式(シート打撃形式)で一人ずつ決められた打席数や対戦打者数を相手にプレーを披露し、プロ球団(やアマチュア球団)のスカウトにアピールする場です。

 

「戦力外になった選手にも公平にアピールする場が与えられる。」というと聞こえは良いですが、当然のことながらここからプロ野球球団に採用される可能性は極めて低く、各球団からすれば「足りないところを埋めつつ伸びしろを見て契約に値する選手がいれば契約する」つまり「いい選手でも選手が足りていれば獲得されない」ですし、今の時代選手の能力もある程度各球団に知れ渡っているので「埋もれていた(知られていなかった)才能を発掘して開花させる!」場合も少ないです。

 

そうなると、プロ野球球団からすれば元々ある程度目星をつけ置いたうえでその選手の最終状態チェックとしてトライアウトでのプレーを見るぐらいの位置づけになります。

 

このように、現実的には一発逆転ができるような、そんな甘いイベントではありませんが、制度としては2001年に始まり、2球場での開催や、トライアウトを経ずして交渉可能であることによる選手会と球団とのいざこざや様々な課題が発生しながらも約20年近くも運用されている制度であり、今年は有料の座席も作られるなど、近年は一つのイベントとしても盛り上がりを見せています。

 

このようにトライアウトの開催は、本来の目的(プロ野球球団への再就職)が達成される確率は低いにも関わず、トライアウトそのもの自体が盛り上がっているのは本末転倒なようにも感じますが、コアな野球(選手)ファンにとってみれば応援している選手が応援しているチームのユニフォームを着た最後の雄姿を見届けることができますし、選手側からしてもこのトライアウトで自分の実力を出し切った上であきらめをつけて次の道に進んでいけるということになります。

このように、最近のトライアウトはファン・選手ともに「思い出作り」としての側面が目的化し、美化されてきた感じも受けます。テレビの特集で「密着取材」が組まれるなど、ちょっと加熱しすぎな気も。。。

 

このように開始から18年経ち、少しづつやり方や雰囲気が変わってきたトライアウトですが、とはいえ今でもトライアウトから採用される選手も居ますし、プロ野球というそもそもが「興行」で行っている業界スポーツにおいて興行として機能し始めている以上、おそらくしばらくは今の形式が維持されるのではないかと思います。

 

ちなみに、今年はホークスでいえば、城所や吉村が参加しており、他球団では阪神の西岡やヤクルトの成瀬も参加したことで今年は話題となりました。城所選手は「キドコロ待機中」のTシャツが作られ、それをイチローが着用するなど話題になりましたが「今は就活中です」とまさにプロの鑑といえるリップサービスまで披露しています。

 

プロ野球選手としての生きざまが凝縮されたトライアウト。

一度は生で見てみたいと思えてきました。

甲斐キャノンの1年

日本シリーズを席巻した「甲斐キャノン」素晴らしかったですね。

今シーズン通算の盗塁阻止率は4割超え、そして日本シリーズでは10割。

一般的に投球をとってから二塁に届くまでの時間は1.8秒をきると超一流と言われますが、甲斐は1.7秒台を何度もたたき出します。

そして、「投げるスピード=肩の強さ」が特に取り上げられますが、実際は「ボールをとる」「ボールを握る」「体を起こす」「投球動作に入る」「投げる」と5つの動作が関連しており、これらを高い次元で融合できているのはもちろんこと、特に個人的には「体を起こす」から「投球動作に入る」までの無駄が少ないのが素晴らしいと感じます。

 

そして、これはよくテレビでもとりあげられるのですが、この体を起こすから投球動作に入るまでの速さを実現しているのがフットワーク、通称「捕球時に左足を一歩前に出す」です。

 

なぜ、左足を一歩前に出すのがここまでクローズアップされるのか。

そうすることで、「捕球=静」から「投げる=動」にいくタイムロスをなくせるので効率的なのは当たり前ですが、150km近いボール(時には変化球)を体を動かしながら捕ること自体難易度が高いだけでなく、まして足という基盤部分を動かしながら捕球するのは相当の技術が必要なので、まさに「言うは易し、行うは難し」です。

そしてこれを可能にしているのが強靭かつ俊敏な下半身です。

身体はあまり大きくないですが、太もも回りの筋肉がすごいので、上記の技術面での反復練習+それを可能にする基礎体力面での反復練習を相当につんできたということでしょう。

 

ただ、シーズン前半の甲斐は苦しんでいました。

 

今となっては信じられませんが4月12日時点の盗塁阻止率はなんと.091。

投手陣がバタついていた+控え捕手の高谷がけがで離脱したのもあって無理できない状況だったのはありますが、実はこれは春のキャンプから達川ヘッドコーチに予見されていて、「甲斐は筋肉をつけすぎて俊敏性が落ちたのでやばい」としきりにインタビューで回答している姿が印象的でした。

選手は進歩しようとして(恐らく打撃力強化)体を大きくしたのに、結果として一番の長所である下半身の俊敏性が失われしまった。なんとも皮肉な結果です。

 

そしてシーズンを重ねるうちに、特に後半からはもう甲斐からは誰も走れないだろうなというぐらいの雰囲気をまた作っていき、日本シリーズにつながりました。

春先からシーズン中の変化、春先の試練をどう乗り越えていったのかを語られた記事はあまりみかけないのが残念なのですが、シーズンオフになってその辺りを解説者が誰か聞き出してくれないかなと期待しています。

 

自分の仮説としてはシーズンが重ねるにつれて、市川を緊急獲得したり高谷も戻ってきたりで、また競争意識が生まれて自身の強みに意識的に原点回帰する時があったのではないかと。もう一つは少し疲れも出てきてオフにつけた大きな筋肉が少し落ちて返ってキレが増したのではないかということで、精神面と体力面での変化があったのではないかと想像します。

 

そして、来年は今年の反省をうまく活かして、シーズンスタートから全開の甲斐キャノンを期待、そしていよいよ正捕手としてのシーズンになることを期待したいところです。(去年以上に日本シリーズMVPもあり取材が殺到して練習時間もままならなそうなのが心配ですが。。。)

2018年シーズン終了

先週の土曜日に日本シリーズが終わり、ホークスは2年連続の日本一を決めました。

 

7月頃にはBクラスに転落して上がり目も見当たらないなかなか大変な状況でしたが、そこから新戦力がどんどん台頭してきて結果は2位フィニッシュ。一時は西武をまくるぐらいの勢いもありましたが、今年の西武は強かった。

そして、CSと日本シリーズのホークスはとにかく勝負強かったし、集中力が凄かった。

 

そういった形で今年も様々なドラマがありましたが、もう来年への戦いは始まっていて、攝津・五十嵐・寺原などの功労者は戦力外となり、今は浅村や西といった選手のFA宣言のニュースが世の中を賑わせています。

 

このブログでも、2018年シーズンを振り返りながら、2019年の展望を含めてこれから少しづつ更新していこうと思います。

 

まず、初回は時流にのって甲斐キャノンについて、シーズン開始から振り返ろうと思います。

川崎宗則

それは突然の新聞報道であり球団発表であった。

勿論そんな悪い予感はしていたが、本当にそうなった。

 

川崎宗則ホークス退団、実質引退か」

 

詳細は新聞報道に任せるとして自分の中での川崎ヒストリーをまとめようと思う。

 

一言でいうならばかれは「空気を変えた」選手だと思う。

 

まずは2003年、「ファームで圧倒的首位打者をとった川崎という選手がいる」ということは知っていたが、井口・松中・城島を中心としたダイハード打線に2番サードとして存在感を示した。この頃は井口や城島など野手は武士のような選手が多かった中、川崎や当時ルーキーの和田など爽やかイケメンの先駆け的存在だった。

2004年はショートのレギュラーを獲得し、首位打者盗塁王とタイトルホルダーにもなり一気に知名度が上がるとともにそのイケメンキャラ、「宗リン」は全国区となる。

 

そして2006年、WBCに出場し決勝のキューバ戦での「神の手」ホームインにより日本に優勝をもたらしたのである。そしてこのWBCが川崎の野球人生を大きく変えたのだろう。そして個人的には2009年の決勝韓国戦、イチローが林からセンター前タイムリーを打つ前の打者は「代打 川崎」だったのである。

もちろんリアルタイムで見ていたので「ここで宗リンが打って決めるのか。」「イチローまで回るのか。」と思いながらムネリン打ってくれと願ったらたしか初球を打ってサードフライ。この時の本当に悔しそうな表情は自分も記憶している。

 

そんな栄光も苦労も味わった国際大会を経て、特に2009年以降の川崎はチームリーダーとして抜群の存在感を発揮するようになる。

今やホークス選手がお立ち台で当たり前のようにやるパフォーマンスも、祝勝会での音頭取りもムネリンが始めたそうである。

 

冒頭にも書いたが個性が強く個人としての独立度が高かったチームが、一つの元気印を中心に機能していく。そしてとにかく周りを盛り上げる。今のチームの文化は川崎が作った。そしてそれを共にプレーした内川・松田・本多が引き継いだといっても過言ではないのである。

 

そして迎えた2011年オフ。日本一を置き土産に川崎はアメリカに渡った。

そう、イチローを追いかけてついにメジャーリーガーになってしまったのだ。

しかもイチローはその年の9月にトレードをチームで去る。それでも彼はアメリカで戦い続けることを4年にわたって選択し続けた。これはなかなかできることではない。

 

メジャーリーガー川崎宗則として記憶に残るのは大きく2つ。

一つはブルージェイズ時代、そしてもう一つはカブス時代である。

川崎が選手として輝いたのはブルージェイズ時代で、メジャーでサヨナラヒットを打ったし、トロントの地元のテレビ番組では人気者になった。かの有名は「アイムジャパニーーーズ!」もこの時代である。

続いてカブス時代、ほとんどがマイナー暮らしが続いたが、昇格したタイミングでは安打をしっかり放ち、オープン戦では守備でも貢献し、腐らずに野球を続けた結果、「ヤギの呪い」と言われたようにカブスは長く優勝できなかったチームが2016年はワールドチャンピオンになったのです。

 

日本時代にチームの流れを変え、アメリカでエンターテイメントの深さを知り、そしてアメリカで「野球を楽しむ」ことの大切さに気付いたムネリンはホークスに大きな足跡を残すこととなる。

 

そして昨年帰国し、停滞していたチームのムードを盛り上げホークスを2年ぶりの優勝に導いてくれました。

惜しむらくは帰国してからヒーローインタビューの機会がなく、「チェスト!!」が聞けなかったこと。ファンは川崎が活躍した日は「今日こそ聞けるのでは??」と期待しつつ待っていたがその機会は叶いませんでした。

 

それでもいつかきっとどんな形であれ元気になってくれることでしょう。

多くのものを野球界にもたらしたチームプレイヤー川崎宗則選手、お疲れ様でした。

 

【川崎の所属するチームの戦績】

日本一:3回(リーグ優勝実質6回)

世界一:1回(リーグ優勝2回)

WBC優勝:2回

 

個人として圧倒的に突出したわけではなくとも最高の野球選手でした。 

育成選手

こんばんは。久しぶりのブログ更新となりました。

最近はホークス選手のオフの番組を見て満足する傾向にあるので久々の更新です。

 

千賀・甲斐を筆頭として最近は「育成のホークス」というのが板についてきた感がありますが、その中でも話題となっている育成選手の歴史を振り返ってみましょう。

 

はじめに、育成選手とは各球団決められた支配下登録枠(69名)には入らない枠で、支配下登録の選手より給料も安く、「将来化けるかもしれない」選手を確保しておくための制度です。球団によってはこの制度を利用しないところもあります。(ハムなど)

 

さて、千賀や甲斐が指名されたのが2010年ドラフトですが、8年前のドラフトになりますが、育成ドラフト自体は2005年から始まった制度でした。

まずは簡単に2005~2009を振り返りますが、この時期はちょうどソフトバンクホークスが誕生した時期、かつ2軍で時間をかけて育成というよりはダイエー時代の主力選手の移籍や衰えもあり一軍のほうに注力するのが精いっぱいな時代で計8名が指名されました。(うち、2008ドラフトが6名)

 

少し余談を挟みますがこの時期で育成選手として支配下登録を勝ち取ったのは、西山・小斉、山田、二保、猪本選手で5/8なのでなかなか高確率です。

西山は球が速いものの決め球とコントロールに難があり大成せず、小斉は左の長距離砲として大きな期待を受けましたがこちらもバットコントロールに難があり大成せず、ただし楽天に移籍するなど息の長い選手でした。

そして、山田はヤクルトに移籍し、二保は一昨年見事な活躍を見せ、今年は怪我でリハビリの日々でした、来年以降の復帰に期待、猪本もロッテに移籍し今年引退しました。ちなみに堂上選手は何か問題を起こしたような・・(トオイメ)

これらの選手が支配下登録された時代はホークスというチーム自体もあまり強くはなかったということもあって、ドラフト下位で指名される選手に一歩届かなかった選手が安い給料で一旦契約されるイメージした。

 

そんな状況が大きく変わったのは2011年の3軍制の設立です。

ちなみに2011年はホークス優勝。いよいよ黄金期を作っていこうと本腰を入れたタイミングだったように思います。(ただ、この年のオフに川崎、杉内、和田、ホールトンが抜けるという緊急事態があり、2012と13は優勝を逃しますが)

そのため、2010年以降は各年6・7・4・4・8・5・6名とコンスタントに育成選手を獲得しています。特に2010、2011年ドラフトは若干「3軍の数合わせ」として指名しているケースもありました。

そして、この3軍制の開始には恐らくもともと2軍本拠地としていたオンボロ雁ノ巣球場から現在のタマスタ筑後への移転計画も具体的になってきて、3軍を抱えてもまずは施設面で賄えるめどが立った時期でもありました。

 

そして3軍制について試合や運営に関するノウハウも溜まってきた2014年以降は、高校生の素材型を主体とした指名を続けています。

確率でいえば初期に比べ支配下選手登録を勝ち取る可能性はどんどん低くなっていき、選手は強烈な競争に晒されるわけですが、だからこそ千賀や甲斐など球界を代表するレベルの「掘り出し物」に巡り合えたのでしょう。

 

今や「育成のホークス」ですが、ここまで来るには球団の戦略があり、それの延長線上に今があることがおわかりいただけたでしょうか。

 

それにしても改めて振り返ってみるとこれだけ壮大な絵を描くこと、そしてそれを実行・実現する力が備わっていることは一企業として純粋に尊敬しますね。

 

本日はこの辺で。